「右手は、手首は動かせますが

「右手は、手首は動かせますが、人差し指と中指以外は曲げられません」と言って、右手首をクイッと曲げて見せる。

「なんでこんな訳の分からない麻痺が残ったのかはわからないそうです。ただ、神経が傷ついているようでもないので、リハビリ次第で動かせるようになるかもしれない、と言われました」

「あの」と言って、お義姉さんがカップを置いた。

 彼女は客用の真っ白いマグカップを使っていた。

「事故って……どういう……?」

「うちの会社が取引をやめたせいplaygroup香港で倒産した会社の社長が、俺目掛けて車で突っ込んで来たんです。その瞬間のことはよく覚えていないんですが、どうやら咄嗟に両手を前に出してしまったらしくて」

「そう、なんですか」

「本当は、会長か社長を狙っていたらしいんですが、二人は地下駐車場から社用車で移動しますから、難しかったようです。そこに、会長の三男で広報部長としてマスコミにもよく顔を出している俺が正面玄関からのこのこ出てきて、とにかく経営者一族の誰かならいいだろうって思ったようです」

「そんな……」

 お義姉さんは唇を震わせ、それからキュッと結んだ。眉根を寄せ、今にも泣きそうだ。

 萌花は、こんな顔してくれなかったな。

 目覚めた俺に「驚かせないでよ」と言っただけだった。

 愛し合って結婚したわけじゃないから、当然か。

「犯人は……?」

 お義姉さんは震える声で聞いた。

「拘置所で自殺を図ったそうで、今は独房? で裁判を待っているそうです」

「そうですか……」

 俺はもう一度カップを持ち、飲みやすい温度になったコーヒーを二口、飲んだ。

「正直、会長の息子ってだけで入社して、大した苦労もせずに部長なんて役職を与えられて、うんざりしてたんです。だから、俺的には会社から離れて、好きなだけ本を読める生活が出来て、ちょっとラッキーって言うか――」

「――そんなこと、あるわけないです!」

 急に大声で言われて、驚いた。

「明堂さんは何も悪くないのに、いきなり身体の自由を奪われて、仕事だって――好きじゃなかったとしてもこんな風に出来なくなっちゃって……ラッキーだなんて、そんなわけない!」

「お義姉さん……」

「すみません。私……無関係なのに、偉そうに……」

「いえ。……優しいですね、お義姉さん。妹の旦那とはいえ、結婚式で会っただけの俺なんかの為にそんな風に言ってくれるなんて」

 父さんも兄さんたちも、萌花でさえ、ベッドから起き上がるのもままならない俺を、面倒臭そうに見下ろしていた。

 俺の事故のせいで会社が世間の好奇の目に晒されたのは事実で、萌花でさえタクシー移動なのに、俺が電車通勤なんかしていたせいで事故に遭ったと疎まれているのもわかった。

 父さんと兄さんへのアピール目的で見舞いに来た重役や部下たちは、「大変でしたね」「可哀想に」と同情の言葉をくれたけれど、本心だなんて思えなかった。
「とにかく、俺の身体はそんな感じです。せっかく買って来てもらったんですけど、足踏み竹は勘弁してください」と言って、俺は笑った。

 長年の不摂生のせいか、入院生活で身体がなまっているせいか、とにかく痛くて堪らなかった。

「まずは、左手首を動かせるように頑張りませんか?」

「え?」

「一度には大変ですし、不自由な部分を庇っていると、他の部分に負担がかかって痛めてしまうと聞いたことがあります。まずは、指が動かせる左手のリハビリに専念しましょう。そうしたら、カップやスプーンも持てますし」

 昨夜、俺はスプーンを右手の人差し指と中指の間に挟んでカレーライスを食べてみた。簡単ではなかったが、食べられた。最初の数口は。段々、指がだるくなり、口に運ぶ以前に上手くすくえなくて、左手に持ち替えようとしたが、手首が上がらなかった。それでも、左手首を右手首で支えるようにして持ち上げ、食べ続けた。

 お義姉さんは俺の好みが分からないからと、辛口、中辛、甘口のカレーのルーを買っていた。本来ならば辛口を食べたいところだけれど、薄味の病院食に慣れていたこともあって、中辛に控えた。が、それでも辛く感じてしまい、いい加減手が疲れたのもあって、半分ほど残してしまった。

 お義姉さんは「お手伝いしましょうか」と言ってくれたけれど、「あーん」なんてしている自分にゾッとして、断った。

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